小原啓渡執筆集「諸行無常日記」

2008.09.22

不惑

「ふ」、「不惑」で。

「吾十有五にして学に志し(志学)、三十にして立ち(而立)、四十にして惑わず(不惑)、五十にして天命を知る(知命)。六十にして耳順(したが)い(耳順)、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず(従心)」

孔子の論語にある有名な一節です。

「四十にして惑わず(不惑)」を、ずっと「迷いがない」という意味だと思っていましたが、どうやら、「小さな枠に囚われず自由でいること」というのが本来の意味のようです。

自分が四十を過ぎて、迷いがないかと問われると困りますが、小さな枠にとらわれず自由かと聞かれれば、迷いなく「ハイ!」と答えることができそうです。
それが僕の唯一の取り柄かもしれません。

それでは、これから迎える「知命」「耳順」は何となく理解はできますが、「七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」というのは、意味さえもが難解で(この解説だけで一冊の本が書けるかもしれません)、ある意味で悟りの境地に近いものだろうと考えると、到達するのはかなり難しそうです。

孔子が73歳で亡くなっていることから、八十にして・・・というのがないことに納得がいきますが、今の時代80歳を超えた方などざらにおられます。
もし、孔子に続けて、おこがましくも僕が付け加えるなら、

「八十にして、幼児に帰る(帰児)」

「九十にして、無に到る(到無)」 とか如何でしょう?

1歳から5歳くらいまでの幼児、この時期の人間が僕はもっとも活力にあふれていて、純粋で、美しいと思うのです。

そして、死を前に究極の「無」に到る。

小原啓渡

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