小原啓渡執筆集「諸行無常日記」

2008.07.20

知行合一

「ち」、「知行合一」で。

「知行合一」とは、実践の学問といわれる「陽明学」の命題で、
「知って行わないのは、未だ知らないのと同じである」、つまり実践を伴って初めてその知識は完結するという意味ですね。

「陽明学」は、「知行合一」の他に「心即理」「到良知」すなわち、心が私欲によって曇っていなければ、心と理は一体であり、全ての人が本来は聖人であると主張し、
聖人は学問の研鑽と静坐により達成した人、万物の理を極めてから実践に向かう「知先行後」を唱える「朱子学」に真っ向から異論を投げかけた学問です。

「行動」を最重要視する僕としては、もちろん「陽明学」を支持しますし、陽明学から多くを学んだことも事実です。

ただ、王陽明が朱子学に異論を唱えたように、僕も陽明学に異論を投げかけたい気持ちを持ち続けています。

「啓渡学」(洒落です)は、敢えて「行先知後」(行動が先にあり、その経験から学んだものが知である)を主張します。

陽明学が、「実践・実行の学問」なら、啓渡学は、「行動の学問」です。

何が違うかと言えば、実践や実行というのは、知があっての、あるいは、知と行が表裏一体の考え方ですが、行動というのは「知」だけで起こるものではないという部分です。
好奇心であったり、衝動であったり、そういったものも行動を誘発します。

「啓渡学」では、行動によって学ぶ「知」を重要であると考えます。

例えば、幼児には基本的に「知」はありません。
好奇心に動かされて、火に触れ、火傷をして「知」を一つ獲得します。
その経験の積み重ねが「知」を育て、その「知」をベースに学問の研鑽へ向かいます。

つまり「啓渡学」の根幹は、純粋なる「好奇心」によって「行動」を導き、その経験から「知」を獲得するという考え方です。

そして、朱子学においても陽明学においても言及している「聖人」に関していうなら、「幼児のような好奇心に溢れた無垢な瞳」を持った人、これこそが聖人の証であると啓渡学では考えます。

(こんな事を書くと、陽明学や朱子学を専門に研究されている方からお叱りを受けそうですが、素人のたわごとだと容赦頂ければ幸いです)

小原啓渡

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