小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.10.13

エム

「え」、「エム」

小原さんは「エムですか、エスですか?」と聞かれたことがあります。
もちろん、サイズのことではなく、「マゾか、サドか」という意味ですが・・・。

「少なくとも、サディストではないな」と答えましたが、よくよく考えてみるとサディストになる可能性は無きにしもあらずと思いました。

性格的に人を喜ばせるのが大好きですから、人を意識的に苦しめたり虐めることは許せないタイプで、それを楽しいなどとは100%思いません。

ただ、虐められることを快楽に感じる人が相手なら、苦しめているのではなく喜ばせていることになるわけですから、話はややこしくなってきます。

そういう意味では、事前に「エムですか、エスですか?」と公然と聞けるようになったのは、いいことなのかもしれません・・・。

それでは、「エム」かと言えば、そうでもない。

ただ、人を喜ばせることにおいては、かなり献身的になるし自己犠牲もいとわないところがありますから、これも「エム」の一種だと考えると、また話が複雑になってしまいます。

結局のところ、「相手が喜ぶなら、エムにでもエスにでもなりますよ」というのが僕にとって最適な答えなのでしょう。

小原啓渡

2008.10.12

「う」、「器」で。

「あの人は器が大きい」などと言いますが、人の「器」とは何なのでしょう。

一般的には男性に対して用いることが多く、「器量」「度量」「許容量」が大きい、もう少し具体的に言うと「寛容で落ち着きがあり、忍耐強く肝の座った有能な人」とでも表現すればいいのでしょうか。

ただ、僕の考えは少し違っています。

以前何かの本で、坂本竜馬が西郷隆盛を「小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響く男」と称したという話を読んだことがあります。

西郷隆盛は、器の大きい人物であったと評されることが多いですから、坂本竜馬にとって器が大きいとは、「小さく打てば小さく響き、大きく打てば大きく響く」資質をもった人間である、ということになるのかもしれません。

もしそうなら、僕も坂本竜馬の考えにより近い気がします。

つまり、どこから見ても、誰が見ても「立派な人物」というより、「薄っぺらな人間が見れば同じ薄っぺらな人間に見え、有能な人が見れば有能に見えるような人物」こそが、器の大きな人間なのではないかということです。

「清濁併せ呑む」という言葉がありますが、まさにある時は悪人でありながら、ある時は聖人であるような人物、ある時はバカで、ある時は賢者に見える人、ワイルドでありながら知的であるとか、大人でありながら子供であるといった対極にある要素を、時と場合に応じて自然に使い分けることのできるバランス感覚を持ち、決して人格的に破たんすることのない人物。

「器の大きな人」とは、そんな人物ではないかと思っています。

小原啓渡

2008.10.11

維新派

「い」、「維新派」で。

昨日、びわこの湖水上で行われた「維新派」の新作「呼吸機械」を観てきました。
このブログでは舞台批評家的にならないように、基本的には舞台作品に対するコメントは避けるようにしているので、作・演出の松本雄吉さんに関して少しだけ。

大阪から志賀の長浜市は遠かったですが、行った甲斐は十分ありました。
維新派らしいとても素晴らしい舞台だったと思います。

2004年だったか、自分が出していたフリーペーパーのインタビューを松本さんにさせていただいたことがあります。
テーマは「創造とは何か」、
「人の真似はしたくない、人がやっていないことをする」ということを言われていました。
https://www.artcomplex.net/text_archives/i/

その言葉どおり「維新派」は独特の世界観に基づいた、「ジャンジャン・オペラ」という新しいジャンルを確立し、今や日本を代表する世界的なカンパニーになっています。

大阪を拠点に、これからもさらに活躍の幅を広げていってほしいと思います。

小原啓渡

2008.10.10

愛ー3

「あ」、「愛ー3」

今日から7周目になります。
とにかく、続けましょう。

周初めの「あ」は、「愛」に関する考察ということを始めたので今回は「愛ー3」

前回は愛の表出として「美」を書きましたが、いみじくも高校生になった娘の名前が「愛美(あいみ)」であることに気づきました。
命名するときは、正直いって根拠などなく、何となく素敵だなと思って付けたのですが、おそらく潜在的に持っていた強い思いだったのでしょう、感慨深いものがあります。

ところで、今日の新聞にノーベル物理学賞を日本人が受賞された記事が出ていました。
さっそく素粒子物理学に関して調べてみましたが、当然のことながら専門的なことは全くわかりませんでした。

ただ、物質を構成している最小の要素である素粒子を研究することで、広大なる宇宙の成り立ちを知ることができるということだけは理解できたと思います。

素粒子に関するいくつかの論文を読みながら、ひょっとすると「宇宙」を解明することと「愛」の本質を探ることは同じなのではないかという思いに駆られました。

つまり、世界最先端の物理学者が探究し続けているものと、歴史に残る哲学者や聖人と呼ばれた人々が追い求めた真理は、結局同じところに行き着くのではないか、そんな思いです。

「宇宙」を「愛」とするなら、「素粒子」は「自分」なのかもしれません。

小原啓渡

2008.10.09

脇役

六周目が終わりです。
「わ」、「脇役」で。

「脇役」と言えば、先日見た映画「おくりびと」にも出ていた、僕が日本の俳優の中で最も好きな「山崎努」さん。

黒澤明の「天国と地獄」「赤ひげ」から伊丹重三の「お葬式」「マルサの女」など、最近では「GO」、テレビドラマの「世紀末の歌」など、彼が出ている作品はほとんど見ています。

基本的に山崎努が出ている作品は監督が違っても大きなハズレはないと思っています。

彼自身が出演する作品を厳選しているのか、彼が出ているから作品の質が上がるのか、単に僕がファンだからそれだけで満足してしまうのかは微妙ですが、どんな作品であれ彼が出ているというだけで躊躇なく見ますし、まず間違いが無い。
特に、年齢を重ねて強烈に増してきている独特の「渋さ」は大きな魅力です。

僕がファンであることはさておいても、彼のような「名優」「名脇役」が作品にとってどれほど大切か、主役がどれほど引き立つか、これだけは見逃せないポイントだと思います。

小原啓渡

2008.10.08

ロウソク

「ろ」、「ロウソク」で。

「ロウソク」と言えば、今ではインテリアや催事に使うものという印象が強いですが、僕が子供のころはクリスマスと誕生日は今と変わらないとしても、非常用というイメージの方が強かったように思います。

今は余程のことがない限り、停電というのはありませんが、昔はよくありました。
台風が近づいた時などは必ずと言っていいくらい何時間も停電したものです。
その時登場するのが「ロウソク」、懐中電灯さえ貴重だった時代です。
(なんだか爺さんみたいですね)

僕の家にも引き出しの中に「ろうそく入れ」とマジックで書かれた箱があって、何本かちびたロウソクが入っていました。
赤くねじれたどう見てもクリスマス用のロウソクでした。
(クリスマスにそのロウソクを見た記憶はありませんが・・・)

強風があばら家を吹きつける不気味な音、誰も話さない家族のぼんやりと浮かび上がる顔、そんな闇の中で、全く不似合いな赤いローソクが、すきま風に揺れながら燃えているのを、不安に眺めている幼少の自分をなぜか今でもはっきりと憶えています。

小原啓渡

2008.10.07

劣等感

「れ」、「劣等感」で。

僕も人並みに、いやひょっとすると人並み以上に「劣等感」に苛まれてきたと思います。
特に思春期、少なくとも20代の前半まではきつかった。

「劣等感」から少しづづ解放され始めたきっかけは、大学も中退し、何もかも捨てて向かったインドへの旅でした。
ある意味で社会からの「ドロップアウト」、競争することから降りる経験を自ら選んで実行したことが大きかったように思います。

もちろん、ポイントは「自ら選択して」という部分で、「ドロップアウト」を無条件に肯定するつもりはありませんが、捨てることで、はっきりとその実態が見えてくるという事は確かにあると思います。

「劣等感」に関して言うなら、「劣等感」を捨てる(これは難しい)というより、競争する価値観を捨てるということなのでしょう。

たしか「競争」というタイトルで以前ブログに書いたと思いますが、重要なのは何と競争するかということで、競争自体を全面的に否定するものでもありません。

良くも悪くも自分に馴染んだ価値観や属性を捨てることには、大きな勇気、もしくは機会が必要だと思いますが、思い切って捨ててみると案外「なぁんだ、この程度のものだったんだ」と感じるものも多いいような気がします。

捨てて取り戻せないもの、それは「時間」と「命」だけ、これが僕の考えです。

小原啓渡

2008.10.06

るつぼ

「る」、「るつぼ」で。

ニューヨークなどに代表される多種多様な民族が混在して生活をしている都市を称して「人種のるつぼ」と言いますが、最近では混在していても決して溶け合うことがないという意味で「サラダボール」という表現が使われるようになってきています。

確かに、僕もニューヨークを歩いている時に何度か道を聞かれたことがあり、まさか日本で外国人に道を尋ねる人がまずいないことを考えると、アメリカが多民族国家であることに納得がいきます。

こと先進国において日本ほど単一の民族で占められている国も少ないのではないでしょうか。

こうした国の在り方が良いか悪いかは賛否両論ですが、少子高齢化が進む日本において、いつまで外国人の受け入れを厳しく制限し続けることができるのかは疑問です。

昨日、芸術創造館で今回2回目となる「ダンスコンプレックス」という自主企画があり、ダンス(身体表現)という大きなくくりの中で、様々なダンスのチーム20組のパフォーマンスを見ることができました。

ヒップホップ、クラッシック、モダン、コンテンポラリー、ベリーダンス、パントマイムなど、極めつけはバトントワリングの世界チャンピオン(3連覇)の方まで参加されて、本当に見ていて楽しく、控室の雰囲気も和気あいあいとして気持ちのいい企画でした。

「違いを大切なものと考え、違いを認め、尊重し、違いから刺激を受けて、学ぶ姿勢」の素晴らしさを実感することができました。

現実的な話をすれば、政治や経済などにおける利権や宗教などが絡んでくると、多民族社会における問題はさらに複雑化していきます。
しかし、アートにはそうした軋轢はありません。

だからこそ、アートは決して溶け合うことのない「サラダボール」から、もう一度都市や国家を健全なる「るつぼ」に変える可能性を秘めているのだと思います。

小原啓渡

2008.10.05

料理

「り」、「料理」で。

「料理は得意です」と言えれば、今時のイケてる男性として合格なのでしょうが、残念ながら出来ません。

高校の時、学校のすぐ近くに下宿をして通っていました。
民家の離れの小さな一軒家で、共同の台所以外に部屋が3つあり、僕以外の二部屋には中学と養護学校の先生が2人住んでいました。
僕の部屋は2階に上がった階段の横、屋根裏部屋のような変形4畳半。

地方のさびれた町だったので、近くに食堂やレストランもなく(当時はコンビニもなかった)、必然的に食事は自炊をしなければなりませんでした。

時には3人で料理をしたり、誰かが作ったものを分け合ったりもしていましたが、僕は当時柔道部(過去に全国優勝もしていた)に所属していて、毎日かなり遅くまで練習があり、2人の先生方と帰宅時間が違っていたために、自分の分は自分で作らなければならないことが多かったわけです。

くたくたに疲れて帰って、それから食事を作るというのはかなりハードで、最初は結構楽しみながらやっていた料理が次第に苦痛になってきたのは仕方のないことかもしれません。

結局、カレーを大量に作っておいて冷凍し、毎日カレーというような毎日。

そんな生活が2年半ほど続き、ついに栄養失調(今の時代なら考えられないですね)で倒れて、3年生の半ばから、少し離れていましたが母方の祖母の家から約1時間自転車に乗って学校に通うようになりました。

おそらくこの経験がトラウマになっているのでしょう、「料理」に興味はありますが、その後自分では全く「料理」をしなくなり現在に至ります。

結構、味にはうるさい方だと思っているので、将来的にはトラウマを克服して、今度は「料理の達人」を目指したいと思います。

小原啓渡

2008.10.04

ライブ

「ら」、「ライブ」で。

現在、「ライブエンターテイメント」の活性化を目的としたNPOを経済産業局と協働で立ち上げる準備をしています。
この「ライブ」という感覚に関して少し。

エンターテイメントに関して「ライブ」とは何かを考える時、「ライブでないもの」を引き合いに出すと説明しやすいと思います。

たとえば映画(映像)は五感を基準に考えると何が欠けているか。
視覚と聴覚以外の臭覚、味覚、触覚は基本的に制限されてしまいます。

最近では、映像が揺れるシーンでは座っている椅子が振動したり、風が起こるシーンでは足もとから風が吹き上がってくる等の仕掛けを用いたイベントが開催されていますし、臭覚に関しても色々な匂いを作り出せる機械が開発されているようですが、実際のところはまだまだ実用化に時間がかかりそうです。

一般的に演劇やダンスなど舞台で演じられるパフォーマンスは「ライブ」であると認識されています。
しかしそれは「演じる側と観る側が、同じ空間と時間を共有している」という意味であって、例えば海辺のシーン自体が「ライブ」であるかというとそうではないですね。

つまり「ライブ」と「現実(リアリティー)」は意味合いとして微妙に違うということになります。

ただ、「リアリティーとは何か」という論題になると、かなり哲学的な領域に踏み込まざるを得なくなるので、ここでは言及を避けますが、より「リアリティー」に近い「ライブ」を目指す方向性があってもいいのではないかと常々思っています。(もちろん、想像力を刺激する方向性も重要です)

たとえば、舞台で煙を発生させるスモークマシーンというのが一般化していますが、ラーメン屋さんのシーンならラーメンのにおいが、海辺のシーンなら潮の香りがボタン一つで出せるような「スメルマシーン」を開発すれば、結構面白いんじゃないかと思うのですが、如何でしょうか?

小原啓渡

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