小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.12.02

小粋

「こ」、「小粋(こいき)」で。

昨日のブログで触れた「軽薄短小」にすこし引っ張られている気もしますが、「小粋」というのに惹かれます。

「いき(粋)とは、いさぎよい、さっぱりとした、しかも張りが在って、その上、どことなく色っぽいこと」だそうだが、関西人の僕からすると、どうしても「江戸っ子」の気性というイメージがあって、しかも「粋だねぇ」という言葉には少々肩肘張った無理を感じてしまいます。

そこで「小粋」つまり「ちょっと粋」というのが大人っぽくて、バランス的にも素敵な気がします。

「小粋」な人が増えれば、世の中はもっとすっきりとした、大人な世界になると思うのですが・・・。

小原啓渡

2008.12.01

携帯

「け」、「携帯」で。

「モバイル」とか「ユビキタス」とか「携帯」に関連する言葉が一般化し、それに伴って「軽薄短小」という言葉が「重厚長大」を凌駕する時代に変化してきました。

最初は、持ち運びが楽ということで「軽く、薄く、短く、小さい」を競う商品開発が進み、今では会社など組織に関しても、「小回りが利き、効率的」などの理由でコンパクトな枠組みが注目されるようになってきています。

携帯電話に至っては、海外でもほぼ全世界的に国内と同じように使えますし、「iphone」の登場を契機に、今後ますます携帯電話のコンピューター化が進んでいくことは必然です。

実際、僕のように一日中外を飛び回ってるタイプにとっては、機器の軽薄短小化は非常にありがたく、今や携帯電話やモバイルコンピューターなしで仕事を成り立たせることはほぼ不可能です。

結果、一日24時間、365日仕事から離れられなくなっていることも事実ですが、立場上仕方のない部分もあるので、デバイスのモバイル化は歓迎したいと思っています。

小原啓渡

2008.11.30

ぐうたら

「く」、「ぐうたら」で。

「ぐうらた」の語源は、「愚」と「弛(たる)む」という二つの文字が合体したもので、通常は悪い意味合いで用いられていますが、僕にはユーモラスなイメージがあり、具体的には、日本の民話「三年寝太郎」を思い出してしまいます。

この民話、全国でいくつかバリエーションがあるようですが、基本的には、三年間仕事もせずに寝てばかりいた「ぐうたら」な男が、ある日突然起きだして灌漑などの人に役立つ大事業をやり遂げる、といった内容のお話です。

僕が読んだのは、三年寝た後、父親に無数のわらじを買ってほしいと頼み、それを船に積み込んで出ていく、帰ってきた船に乗っていたのは使い古してボロボロになったわらじの山、寝太郎はそのわらじを桶で洗い、そのわらじに着いていた砂金を集めて資金を得、(寝太郎は佐渡の金山で働く人々のわらじを、持って行った新品のわらじと無料で交換してきた)その金で灌漑事業を行って村を救った、というものでした。

子供心にかなり衝撃的であったのだろうと思うのは、昔話といえば「三年寝太郎」というように、僕の中では代名詞のように定着していることをみればわかります。

そして、この話には大人になっても重要であると思われる要素がふんだんに盛り込まれていると思います。

1- タイトル:しゃれっ気があって一度聞いたら忘れない。

2- ぐうたら=ダメ、という固定観念を打ち砕いている。

3- じっくりと考え抜く(寝太郎はただ寝ていたのではなく考え続けていた)ことの大切さ。

4- 独創的アイディアの重要性。

5- お金を世のため人のために使う、という成熟した精神。

ざっと挙げるだけでもこの通り。

「三年寝太郎」はぜひ大人にも読んでほしい民話です。

小原啓渡

2008.11.29

期限

「き」、「期限」で。

「期限」や「締め切り」のことを英語で「デッドライン」と言いますが、月末は特にいくつかのデッドラインに翻弄されることが多い。

かといって、「期限」がなければなかなか手をつけれないのも実情で、常に締め切りから逆算してぎりぎりのラインでやり始める。

つまり、デッドラインに対して「ライフライン」(本来の意味は違うが・・)があるわけです。

「期限」はプレッシャーになりますが、プレッシャーに伴うストレスがなければ筋力も強くならない。

だからこそ、人から与えられた「期限」だけでなく、期限を設定する必要がないように思える個人的な事にも、できるだけ「期限」を設けるようにしています。

いわゆる「自主筋トレ」です。

小原啓渡

2008.11.28

感謝

「か」、「感謝」で。

僕は何ら宗教というものに関わっておらず、概念としての宗教心は認めるものの、団体としての宗教には懐疑的です。

ただ、あらゆる宗教で重要とされる「感謝」に関しては、何に感謝するかは別として、人間として大切なテーマだと思っています。

僕にとって、一神教的な神は存在しないので、「何々の神に感謝する」といった感覚はありません。
特定の神に対してというより、僕に関わるすべてのものに感謝したい、というのが一番近い感覚だと思います。

偽善的に思えるかもしれませんし、日々の生活の中で常にそういった思いを持って人に接しているかと言えば、残念ながらそこまで人間ができているとも思えません。

しかし、そうありたい、そういう人間になりたいと思っていることは確かですし、静かに自分を見つめることのできる時間の中では、実感として感謝の気持ちが湧き上がってきます。

そして、その感謝の対象すべてに自分は何をして報いていけばいいのかを考えます。

宮島の弥山に、弘法大師が修行に使った火が、1200年以上たった今でも消えずに燃え続けている霊山堂があって、その火で護摩焚きをしてい頂いたことがあります。

その時、祈願したのが「より多くの人に、生きている喜びを感じてほしい」というものでした。

具体的に言うと、出来るだけ多くの人が笑顔になれる機会を創り出すことに尽力することが僕にとって、感謝に対する一番の報いだと思っています。

護摩焚きの間中、僕の脳裏に浮かんでいたイメージは舞台袖から眺める客席、大勢のお客さんが目をきらきらと輝かせながら舞台を観て、微笑んでいる。
そして、何度も何度も、何十万というお客さんが入れ替わり、笑顔で劇場を出ていくというものでした。

感謝すればするほど、その感謝に報いたいという思いも強くなります。

つまり僕にとって感謝することは、仕事に対するエネルギーの源でもあるのだと思います。

小原啓渡

2008.11.27

お金

「お」、「お金」で。

この「お」の使い方は、丁寧さを表す接頭語ですから反則ですね。
でもまあ、「金(かね)」というと何となくいやらしい感じなのでOKとしましょう。

僕のとって「お金」は、自由を得るための一つの手段です。

僕の究極の理想は、「すべてのものから自由になる」ことですから、経済的自由を得るという意味での手段です。

ただ、何から自由になるかという部分で「経済」というのはかなりシンプルな方で、例えば先日書いた「自我」から自由になるといった抽象的で根源的な拘束からすると、かなり表層的ですから「お金」の優先順位はさほど高くない。

というのも、もし「欲望」から自由になることができれば、あるいは「欲望」をコントロールすることができれば、ある意味で「お金」はそれほど必要ではなくなるわけです。

僕は常に本質に興味があり、本質を見極めたいと思っています。

表面的な部分をいくら変えても、根本を変えなければ結局同じことの繰り返し、本当の「自由」を手に入れることはできません。

そういう意味で、「お金」は表層的に人間の自由を拘束するものだと思います。

小原啓渡

2008.11.26

エゴ

「え」、「エゴ」で。

「エゴ」、いわゆる「自我」に関して書くには、通常のタイトル以上にエネルギーと時間がかかると思い、意図的に避けてきました。

僕にとって「エゴ」は、このブログ全体のメインテーマともいえる「愛」の対極にある概念です。

したがって「愛」に関する考察同様、「自我」に関しても、この回だけでは到底書ききれるとは思えませんが、とにかく整理を始めてみることにしましょう。

まず、「自我」に関して考えるにおいて最も厄介なのが、考えること、思考すること自体が「自我」を強める行為になるというパラドックス、つまり、客観視しようとすればするほど主観に引きずられ、忘れようとすればするほど思い出してしまうという、逆説的スパイラルに陥る可能性が高いテーマだということです。

敢えて、「自我」を最もそぎ落とした言葉で表現するなら、「求めるエネルギー」であると僕は思っています。(多くの言葉で説明しようとすればするほど混沌に入り込んでしまいます・・)

そういう意味で言うと対極の「愛」とは、「求めない無のエネルギー」ということになります。

人は意識したことのみを経験として認識するので、すべての経験は意識されたものです。
そして、すべての意識はプラスの方向であれ、マイナスの方向であれ、その人の求めるエネルギーが形を変えたものですから、意識が存在するところにはすべて「自我」が存在します。

ということは、人生が経験の集積だと考えるなら、究極的に人は「エゴ」を捨て去ることはできないということになります。

そしてこの論理に基づくなら、「エゴ」の対極たる「究極の愛」は存在しないということにもなりますが、ここで考慮しなければならないのが、基本的に悟った人間などいないという前提です。

オール・オア・ナッシングではなく、人はバランスの中で生きています。

「エゴ」を超越して生きている人間はいないかもしれませんが、「エゴ」を超越する瞬間を持つことは誰しも可能であり、その瞬間が多ければ多いほど、その時間が長ければ長いほど、人は「愛」に近づくことになります。

それでは、「エゴ」を超越する瞬間とは例えばどういった状態なのでしょうか。

僕が考えるその瞬間とは、「創造」の瞬間です。

経験や意識から切り離されたところでなされる「真の創造」。

この瞬間こそが人間にとって至福の瞬間であり、「エゴ」を超越した「愛」の瞬間なのだと僕は思っています。

小原啓渡

2008.11.25

「う」、「牛」で。

子供のころ、町の牛乳屋さんに乳牛が3頭いました。

しょっちゅうおばさんが乳しぼりをしていましたが、当時、町内の牛乳をこの牛3頭が賄っていたとは思えない。
いくらなんでもそんなに毎日大量に乳が出るはずがない。

それではあの乳はどこに行ったのだろう。
仕入れた牛乳に混ぜていたのだろうか。それとも牛乳屋のメンツにかけて自分の家で飲む牛乳だけは生乳にこだわっていたのだろうか。

兎にも角にも、僕はその牛たちが大好きで、学校帰りに毎日のように会いに行って、大きな体に触っていた。

普通なら臭いと思う牛舎の匂いも好きだった。

今思うに、その時間が一番ほっこりしていた。

ひょっとして、僕は昔々、牛だったのかもしれない。

小原啓渡

2008.11.24

意外

「い」、「意外」で。

「意外に面白かった」「意外においしかった」っていうのは小さな幸せですね。

過去の経験から割り出す予測が、幸か不幸かあまり外れない年齢に達してくると、この「意外」っていうのが、マイナスに転んだ場合でも楽しくなってきます。

「意外に・・」っていうは、予想と大幅にずれたわけではないので余裕の範囲ですし、経験の集積から生まれる「危険な固定観念」を微妙に揺さぶってくれることもあって大歓迎です。

最近、意外に面白かったのが「釜山」、意外においしかったのがピザーラの「でらもっち」。

より多くの意外さに出会うには、敢えてパターンから抜け出してみることが必要ですね。

いつもは読まないジャンルの本を読んでみるとか、いつもは注文しないメニューを選んでみるとか、「ああ、やっぱり」ってことも多いですが・・・。

小原啓渡

2008.11.23

愛ー4

「あ」、「愛ー4」で。

今日から8周目、「愛」に関する考察は4回目です。

「2000万人が涙した携帯小説最高のラブストーリー」というキャッチ、この映画は何だかお分かりでしょうか?
正解は「恋空」です。

好奇心で見てみましたが、正直言って何だか空恐ろしい気分になりました。

基本的にこの小説?を支持してるのは、中学生・高校生くらいだとは思いますし、思春期の少女に特有な一時期的な乙女趣味ならさほど心配することもないと思うのですが、こういった小説を恋愛の基準に今後生きていくとしたら、かなりヤバいなと感じ入った次第です。

若い世代の読書離れが云々される時代において、携帯で読める手軽さはいいとしても、もう少し内容の濃い小説を、思春期だからこそ読んでほしいと思うのは老婆心でしょうか。

少し前に流行った「セカチュウ」(世界の中心で愛を叫ぶ)にも通じますが、この短絡的な「純愛路線」が社会現象にまでなるというのは、よほど社会が荒廃しているか、一般人の思考能力が低下してるとしか思えません。

おそらくは、家にいる時間のほとんどをくだらないテレビ番組を眺めることに費やし(子供だけでなく親も)、物事を深く掘り下げて考えようとする姿勢も習慣も、気持もなくなってきているのではないかと危惧せざるを得ません。

薄っぺらな「愛」の概念は、薄っぺらな人間をつくり、薄っぺらな社会をつくり出してしまうと僕は思います。

小原啓渡

PAGE TOP