小原啓渡 執筆集「諸行無常日記」

2008.01.20

目くそ

「め」、今日はちょっと「目くそ」でショートブレイク。

「目くそ、鼻くそを笑う」というのは、さほど違いのない低レベルのもの同士が他方を非難している状況に用いる慣用句ですが、ふと、
笑われた鼻くそは、その後どうしたんだろう?と思った。

「君に笑われる筋合いはない!」と、毅然とした態度をとったとは思えない。
なぜ笑われたのか、ジクジクと思い悩んで落ち込んだかもしれない。
ただ、笑った目くそも、ひょっとすると嘲笑した自分に嫌悪を感じ、深く反省したかもしれない。

「目くそ、鼻くそに謝る」

なるほど、目くそも悪いやつじゃなかったんだ。

「目くそ、鼻くそと笑う」

うん、これはいい!
所詮、大した違いはないと、お互いの境遇を笑い飛ばして仲直りか。

結論:
何はともあれ、人を嘲笑するのは良くない!!

あれ?
なんか話ずれちゃいました、ね。

小原啓渡

2008.01.19

無意味

「む」、ですね。「無意味」という言葉。

「僕は僕の無意味を追求したいんです」

高瀬泰司という作家が「いのちの洗濯」という彼の著書の裏表紙に書いて、僕にくれた言葉です。

学生運動が世を揺るがした時代、そのリーダー格として名を馳せた彼がやっていた小さな酒場がありました。
京都、吉田山その中腹にポツンと一軒。

僕が学生の頃、アングラの世界に足を踏み入れた店です。
彼が亡くなるまでの数年、毎日のように通い、それ以後は一度も行かなかった「白樺」
客は、著名なデザイナーやミュージシャン、舞踏家、政治家まで、高瀬泰司を慕う強烈な個性をもった人たちばかりでした。

「無意味を追求する」
今なお、心に残り、時に思い出しては、また消えていく言葉です。

「意味」を明確にしなければ、「無意味」は曖昧模糊となる。
「無意味を追求する」とは、「意味」を知ることなのかもしれない。
あるいは、意味を明確にする行為自体が「無意味」である、という意味なのかもしれない。

「高瀬泰司」と「アングラ」、そして、「無意味」
僕にとって、捉えきれない、捉えることを拒絶する言葉です。

小原啓渡

2008.01.18

ミサンガ

「み」、「ミサンガ」の思い出を少し。

「ミサンガ」には、着ける時に願い事をすれば、紐が自然に切れた時、その願いがかなうというジンクスがある。

僕の右手首にも黒いミサンガ着いています。
ただ、着けた時にいったい何を願ったのか、全く憶えていない。

2年前、仕事でロスに行った夏、せっかくだからと、レンタカーを借りて、カリフォルニアの海岸線を走りました。

車はシボレーのオープンカー、まさに「カリフォルニアの風」を切り、FMからは、まさに、まさに「ホテル カリフォルニア」系のナンバーが流れてきます。
日本でも有名な「サンタモニカ」から南へ、ベニスビーチの露店でこのミサンガを買いました。

砂浜に古布を敷いただけの、いかにも売れてなさそうな露店。
ヒッピー風のおねえさんに何となく親しみを感じて、立ち止まると、光溢れるカリフォルニアだというのに並べているミサンガがすべて「黒」

「何で黒だけなの?」と聞くと、
「黒が好きだから」と答える。

とにかく一つ買って、着けてもらって、5ドルを払う。

「私、ラッキーだよ」と言うので、
「何で?」
「今日、初めてのお客だから」と答える。

「もうこれで、今日は店じまい!」
「はぁっ?!」

もう、陽は傾き始めているのに・・・今日の売上5ドル?

それから彼女に食事をおごって、ドライブして、家まで送っていった。

ミサンガは2年以上経つのに、まだ切れていない。
切れたとき、実現していること、
きっとそれが、
あの時、僕が願ったことなのだ。

小原啓渡

2008.01.17

マラリア

「ま」、今日はとぼけた話を少し。

「マラリア」は、熱帯地方で発生し、今もなお多くの命を奪ってる非常に怖い感染症ですが、不遜ながら僕には少し違ったイメージがあるんです。

僕が20代になりたての頃、インドを放浪していたことは以前書きましたが、そのころの僕はいわゆる「フラワーチルドレン」通称「ヒッピー」の生き残りでした。
ヒッピーに関しては、また改めて書きたいとは思いますが、とにかく当時(四半世紀前)、インドに長期滞在し、放浪している「本格的なヒッピー?」のほとんどが「通過儀礼」のように罹っていた病気が、「赤痢」「肝炎」「マラリア」でした。

今となっては全く馬鹿げた話だと思うのですが、この3つの病気にかかって初めて「本物のヒッピー??」になれる的な雰囲気があったわけです。
僕はというと、まず「アメーバ赤痢」にかかり、続いて「ウイルス性肝炎」にかかりました。
アメーバ赤痢は、それほど苦労せず完治しましたが、肝炎の方は初期の対処を甘く見ていたために「劇症肝炎」(つまり重症の肝炎)に移行してしまい、死線をさ迷うことになりました。

当時の僕は、あと一つ、「マラリア」になれば「一人前のヒッピー???」になれると、本気で思っていたところがあり、怖れどころか、マラリアになるのを待っているような状態さえありました。

結局、マラリアには感染せず、3つ目は「ジャルジャ」という、変な名前の風土病にかかったわけで、「3つの病気」というラインには一応到達したのですが、この病気、とにかくお腹が妊婦のように膨れて、始終おならが出るという、名前以上にへんてこな病気で、これで「一人前のヒッピー」になったという気にもなれず、ずいぶんと落ち込んだのでした。

まさに「バカ」を真面目にやっていた「若気の至り」の極致ってやつですが、
「本当に僕って運がいいなぁ」と思うのは、肝炎もA型だったために完治し、後遺症が残るというマラリアにも結局かからず、風土病も笑い話ですんだことですね。

当時、「劇症肝炎」に移行した患者の3人に一人は死ぬ、という状況であったにも関わらず、今こうしてお気楽なブログを書いている自分がいるわけですから、まったくもって、

人生って面白いですね。

小原啓渡

2008.01.16

本質

「ほ」ですね、「本」とか「ぽんかん」(ついさっき食べたので・・)とか、色々思い浮かびますが、今日は「本質」。

僕にとって、「本質」という概念は、非常に、非常に重要です。

常に、常に、いかなる対象に対しても「本質」を見極めたいと渇望しています。
「本質」に興味を持ち、「本質」に意識を集中し、「本質」に至る道を探り、掘り下げ、「本質」に迫り、「本質」を見極め、「本質」からフィードバックしていく。
「しつこい!」と言われようが「おおげさ!」と言われようが、「本質」にこだわり続けたいと思っています。

本質を見極めるためには、「本質に至る最短の入口」と考えている「ポイント」に細心の注意を払わなければならないと思っています。
「ポイントがずれてるね」では、だめですね、人生はそんなに長くない。

何かに対峙した時、何よりも意識的に捉えようとするのが「ポイント」です。

もちろん、本質に至る道は決して一つではないと思いますし、「試行錯誤」は、本質に至るプロセスとして避けては通れない部分もありますが、即決を求められる状況も多い仕事などに関しては、「ポイント」を外すと軌道修正するために大変な時間と労力を要することになります。
「ポイント」さえずれていなければ、本質を少なくとも感覚的に捉える事ができ、方向性を取り違えることも少なくなります。

また、すべてのものにそれぞれの「本質」があるとしても、それぞれの「本質」に共通する「本質の本質」ともいうべきものに対する興味も尽きません。
おそらくそれは、きわめて、きわめて、シンプルなものだという気がしています。
そぎ落として、そぎ落として、そぎ落として、最後に残った何か。

その何かは、「空(くう)」であるかもしれないし、「愛」かもしれない、あるいは「無(む)」かもしれない。

その何かを、生涯をかけて、追い求めていきたいと思っています。

小原啓渡

2008.01.15

変身

「へ」ですね、「変身」について。

変身といえば、すぐにカフカの小説が思い浮かびます。
さすがに毒虫に変身したいとは思いませんが、やはり僕にもちょっとした「変身願望」はありますね。

じゃ、具体的に何に変身したいかとなると、はたと考え込んでしまいます。

変身といっても、自由に元の自分に戻れるのかどうかにも依りますよね。
「一日駅長」のように、「一日○○」なら、一応経験として、何にでもなってみたい気はしますが、変身したが最後、ずっとそのままなら、嫌なものはたくさんある。

たとえ「スーパーマン」になれたとしても、ずっとそのままじゃ、色んな場面で呼び出されて忙しくってたまらないだろうし、「バットマン」なんて人から見ればただのコスプレですよ。

そう考えだすと、「変幻自在」ていうのがやはり理想かなぁ。

でも、カフカが扱ってるところの、実存主義におけるアイデンティティーの問題なんてのはどうなってしまうのでしょう?
たった一人の自分だけでも持て余しているのに、多重人格となると僕には耐えられそうにない。

それでも、MUST、何かに変身しなければならないとするなら、何になりたいだろう。

あえていうなら、う?、「宇宙」、かな。

でも・・不満だらけで嫌なんだけど・・・やっぱ「自分」でいいか!って感じです。

小原啓渡

2008.01.14

ブログ

「ふ」ですね、「ブログ」に関して。

まがりなりにも、自分でブログを書いていて思うのは、インターネットの普及に伴う、社会の大きな変化です。
HPにしてもブログにしても、システム的にいえば、一個人が直接、ほとんどお金もかけず、簡単に全世界に発信することができるわけですから、これって、かなり凄いことですよね。
当然、このメディアが社会全体に与える影響も大きいわけですが、その辺は、今回は置いておいて、もう少し個人的な話。

基本的にブログは「日記」ということなんでしょうが、自分しか見ないことを前提とした日記と不特定多数が見ることを前提とした「ブログ」とは大きな違いがあります。
僕も当初、プライベートな内容も含めた日常をブログに書いていたのですが、書いているうちに???が連発するようになりました。

何のために書いているのか?
誰に向けて書いているのか?
書き続けることで、何が起こってくるのか?等々

そんな中で、今も引っかかっているのは、

各人それぞれに目的や対象があるにしても、毎日ブログを書き続ける人というのは、何か共通した性質を持っている、いや、書き続けることによって共通する何かを、持ち始めるのではないか?(気づいている、いないに関わらず・・・・)

自分という人格におけるバーチャルとリアリティーの問題はどうか?
つまり、ブログの中で語られる、自らの選択によって作られていく仮想のパーソナリティーと現実の自分との乖離。

社会との接点、もしくは社会の中で自分が存在する場所、拠り所としてのブログの意味。

データが蓄積されることにおける、「記録」の脅威は?
つまり、「記録」が「記憶」を凌駕する恐怖など

自問自答を繰り返す中で、今もブログに書き込むという行為を続けています。

今年に入って、毎日書くことを自らに課しているのは、そういった疑問に対して、自分なりの答えを見つけたいと思ったから、かもしれません。

小原啓渡

2008.01.13

秘密

「ひ」、「ひみつ」でいきましょう。

秘密や謎は、たくさんある方が、好奇心をそそられます。
ただし、開けてびっくり、楽しい「ひみつ」は大歓迎ですが、悲しい「秘密」はなるべくなら遠慮したいですね。と、ついつい書いてしまいましたが、「ひみつ」は「ナイショ」っぽくて軽くて、「秘密」には何気に重いイメージがあります。

「知らない方が幸せなこともある」
なんて言葉もあるように、暗い秘密は秘密のまま、封印されたまま消滅しなければいけないものなんだという気がします。
「墓まで持っていく」
秘密はづっと秘密でいてほしい気がします。

秘密の多い人って、とらえどころがなくて、不思議な感じで、興味をそそられるってところはありますが、深く付き合っていると疲れることもあります。
基本的に隠し事はない方がいいし、天真爛漫っていうのは人から好かれますよね。

「プレゼントの秘密」なんて知りたくないけど、
「ひみつのプレゼント」ならワクワクします。

「アッコちゃんの秘密」より、
「ひみつのアッコちゃん」の方がダンゼン楽しそうです。

小原啓渡

2008.01.12

はったい粉

みなさん、「は」、はったい粉って知ってますか?
知ってる人は、農業関係者か植物系の学者でない限り、年寄り扱いされるので注意してください。

というのも、はったい粉は、オオムギを炒って挽いた粉なんですが、「はったい粉」の話をして、乗ってくるのは50代、せいぜい40代ですね。
あるいは、実家が田舎の農家で、残念ながらそれほど裕福でなかった30代かな。

僕のように、40代で兵庫のど田舎出身で、貧乏な農家のせがれは、ど真ん中、つまり「はったい粉世代?」なのです。

小学生くらいまで、よく「はったい粉」を水でといて、砂糖を入れて食べてました。
今のように、コンビニがあって、家にはいつも何かしらお菓子が常備されているような時代ではなかったんですね。
おやつと言えば、干し柿や季節によってはトウモロコシとかトマトとか、甘いものなんて、ほんとカリントウとか「はったい粉」くらいしか無かった時代でした。(うちが貧しかったというのもあるかと思いますが・・・)

いゃぁ、こんな話をすると、いきなりオジン臭くなってメゲますね。
でも、とても懐かしい。

あの何とも粉っぽくて、穀物臭くて、素朴な味。
暗い台所ではったい粉をといている自分や、混ざり切らずに固まった砂糖の甘さの記憶が、すべて白黒のイメージなのも、物悲しくて、それはそれで、いいんです。

ただ、僕の父親は、おそらく戦後のもっと貧しい幼少時代に毎日食べさされたイモを、今は絶対に食べません。
芋を毎日食べなくていい生活に幸せを実感するのだそうです。

そんな父親に比べて、僕がはったい粉を懐かしく思うのは、本当の貧しさを知らないからかもしれませんね。

小原啓渡

2008.01.11

濃縮還元

今回は「の」。
ジュースのパックなどに「濃縮還元」という表示がありますが、どういう意味かご存知ですか?
僕は、最近まで知らなかったんです。

何となく、普通のジュースより質がいいもの、って感じに思ってましたが、実は、果汁を一旦煮詰めて水分を飛ばし、粉状にして体積を小さくすることで輸送や保管コストを削減するための方法だったんですね。

「なるほど!」と感心すると同時に、「えっ!」って驚きもありました。

煮詰めちゃうってことは、当然ナチュラルな栄養素っていうかビタミンとかも破壊されてるわけだし、再度水を加える時の水の質も気になりますよね。
そんなことを考えると、今までプラスイメージだったものが、マイナスイメージになってしまいました。

まあ、こういったことはよくあることで、勝手な思い込みって言うか、刷り込まれたイメージっていうか、何となくわかった気になっているだけで、全くわかっていなかったっていうことって、僕自身、結構多いと思います。

例えば、子供の頃から、「牛乳は体にいい!」って言われて、がんがん飲んでた憶えがありますが、最近では、実は、「牛乳は体によくない!」って学説も出ているようですね。

とにかく、すり込みっていうか、思い込みって怖いなぁっていう話です。

小原啓渡

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