小原啓渡執筆集「諸行無常日記」

2008.11.26

エゴ

「え」、「エゴ」で。

「エゴ」、いわゆる「自我」に関して書くには、通常のタイトル以上にエネルギーと時間がかかると思い、意図的に避けてきました。

僕にとって「エゴ」は、このブログ全体のメインテーマともいえる「愛」の対極にある概念です。

したがって「愛」に関する考察同様、「自我」に関しても、この回だけでは到底書ききれるとは思えませんが、とにかく整理を始めてみることにしましょう。

まず、「自我」に関して考えるにおいて最も厄介なのが、考えること、思考すること自体が「自我」を強める行為になるというパラドックス、つまり、客観視しようとすればするほど主観に引きずられ、忘れようとすればするほど思い出してしまうという、逆説的スパイラルに陥る可能性が高いテーマだということです。

敢えて、「自我」を最もそぎ落とした言葉で表現するなら、「求めるエネルギー」であると僕は思っています。(多くの言葉で説明しようとすればするほど混沌に入り込んでしまいます・・)

そういう意味で言うと対極の「愛」とは、「求めない無のエネルギー」ということになります。

人は意識したことのみを経験として認識するので、すべての経験は意識されたものです。
そして、すべての意識はプラスの方向であれ、マイナスの方向であれ、その人の求めるエネルギーが形を変えたものですから、意識が存在するところにはすべて「自我」が存在します。

ということは、人生が経験の集積だと考えるなら、究極的に人は「エゴ」を捨て去ることはできないということになります。

そしてこの論理に基づくなら、「エゴ」の対極たる「究極の愛」は存在しないということにもなりますが、ここで考慮しなければならないのが、基本的に悟った人間などいないという前提です。

オール・オア・ナッシングではなく、人はバランスの中で生きています。

「エゴ」を超越して生きている人間はいないかもしれませんが、「エゴ」を超越する瞬間を持つことは誰しも可能であり、その瞬間が多ければ多いほど、その時間が長ければ長いほど、人は「愛」に近づくことになります。

それでは、「エゴ」を超越する瞬間とは例えばどういった状態なのでしょうか。

僕が考えるその瞬間とは、「創造」の瞬間です。

経験や意識から切り離されたところでなされる「真の創造」。

この瞬間こそが人間にとって至福の瞬間であり、「エゴ」を超越した「愛」の瞬間なのだと僕は思っています。

小原啓渡

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