小原啓渡執筆集「諸行無常日記」
2008.07.14
塞翁が馬
「さ」、「塞翁が馬」で。
「人間万事、塞翁が馬」とは、有名な中国の故事ですね。
簡単に説明すると、
塞翁が飼っていた馬が逃げてしまった(不幸)、
数ヵ月後にその馬が駿馬を連れて帰ってきた(幸)、
その馬に乗った息子が落馬して足を骨折してしまった(不幸)、
その後、戦乱が起こったが、息子は骨折をしていたために兵役を免れた(幸)。
と、まあ、「禍福はあざなえる縄のごとし」というような意味で、すべての事象は連動していて、その時点で幸せと思われたものが、後に不幸と思われるものに結びついたり、その逆もしかりで、幸不幸をその時点で判断するのは軽率だということなのでしょう。
この故事は、今、幸せだと思っている人にとっては「戒め」となり、今、不幸だと思っている人にとっては「希望」になるという意味で、万能の効力を持った言葉ですが、単に自然の摂理を説いているとも言えますね。
月が満ち、欠けていくように、万物は「周期」あるいは「バイオリズム」で変化しています。
これを当然と考えると、物事に「一喜一憂」することがバカバカしくなるか、だからこそ生きてるんだという解釈になるかと思うのですが、僕はどちらかというと前者で、しかも「一喜一喜」、どんな状況でも生きることを楽しんでしまおうというタイプです。
例えば、急いでいるときに電車を乗り過ごしてしまったとします。
僕も普通の人間ですから、一瞬は気分的に落ち込みます。
でも、すかさず、「これは幸福な瞬間に出会うための時間合わせだ」と思うようにしています。
そう思うことを続けていると、それが習慣化されて、だんだん落ち込む時間が短縮されて、遂には、乗り過ごした時点で「ラッキー!」となってくるのです。
習慣とは怖ろしいもので、これで「一喜一喜」が完成します。
(完全なる習慣にするまでが大変ですが・・・)
要は、物事はただ「起こっている」だけ、それに「幸不幸」「善悪」などの判断をするのは主体である自分自身の問題だということです。
たしかに「苦」がかるから「楽」がある、「死」の恐怖が「生」の歓喜を呼び起こすということもあると思いますが、
できれば「苦」は少ない方がいいですよね。
小原啓渡