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ぷがじゃオールディーズ 2008-11-27

関西小劇場の回想vol.12
「ウィングフィールド-2」

▼ウィングフィールドは関西の演劇界が拡大路線へと動き始めた時代にスタートしたのだが、むしろ拡大路線がはじまったからこそ必要な空間になるのではないかと僕には思えた。

▼たとえば蜷川幸雄さんは、大劇場で上演される商業的な演劇の演出家として大成功を収めていたが、同時に蜷川スタジオという無名の若い演劇人を集めた集団をつくり、小さな空間で実験的な演劇に取り組んでいた。

▼それは失敗が許されない商業的演劇と実験が許される小空間の両方を往還することで、自らの創造的なバランスをとっているようにも見えた。

▼後に登場するNODA MAPの野田秀樹も本公演とは別に番外公演と称して小さな空間で実験的な作品づくりを行っている。

▼小劇場から演劇を始めたアーティストたちはスッテップを登るように大空間へ上がっていったとしても、ふたたび小空間に戻り自らの原点とも言える場所で新たなエネルギーを再生するために実験的な作品づくりをする必要があるのではないか。

▼再び小さな劇場をはじめることになった中島陸郎さんとそんな話した記憶がある

松原利巳

ぷがじゃオールディーズ 2008-11-27

関西小劇場の回想vol.11
「ウィングフィールド-1」

▼今回は、ウィングフィールドが閉館するという報道が流れたので、時間を飛び越えてその話をしたい。

ウィングフィールドは、1992年にオープンしたミナミの宗右衛門町にある小劇場だ。

▼中島陸郎さんはオレンジルームをやめたあと、少し大阪を離れていたが、その後、大阪に戻ってこられてはじめたのが、このウィングフィールドだった。

▼オーナーの福本年雄さんの情熱に動かされたと中島さんは、始めた理由を話してくれたことを思い出す。
おそらく91年頃だっただろうか。

▼その頃の、大阪の演劇状況は、85年に扇町ミュージアムスクエア、近鉄劇場がオープンし、88年には近鉄アート館、伊丹アイホールと200席から400席くらいの小劇場が沢山誕生した。

それによって東京からどんどん劇団がくるようになり、逆に大阪からも東京公演をするという流れも生まれた。

▼そもそもこうした流れもオレンジルームからはじまったもので、200から400席へ、そして東京へ大劇場へとう拡大路線の夢が関西演劇界にも生まれはじめた時代だった。

松原利巳

ぷがじゃオールディーズ 2008-11-27

関西小劇場の回想vol.10「オレンジルーム 宣伝ツール」

▼関西の小劇場プロデューサーの草分けである中島さんは、大変なアイディアマンで、宣伝面では、チラシからチケットにいたるまで統一したイメージを作った人である。

▼それもそのはず、大阪の某広告代理店の出身だったので、その辺はお手の物だったのかもしれない。

▼おそらく関西の小劇場界で、チラシ・ポスター・チケットなど、いわゆる宣伝ツールというものを戦略的に展開したのはオレンジルームが初めてだろう。

▼具体的にいうとオレンジルームのチラシ・チケットを決まったフォーマットで作成したのだ。

これを毎回見ていると、いつの間にか統一したイメージが刷り込まれてくる。

▼例えば、いまのぴあチケットやローソンチケットのように手に取っただけで自動的に認識してしまうように、オレンジルームのチケットも自動認識してしまうのだ。

▼実は、最初から自動認識を狙ったわけではなく、なんとか安くできないかという理由から始めたものだった。

▼「経済は発明の母」という諺はないがお金がないと知恵を絞るしかないのは世の常である

松原利巳

ぷがじゃオールディーズ 2008-11-27

関西小劇場の回想vol.9
「オレンジルーム サロン2」

「演劇通信」
▼朝日新聞の大川さんのほかに、サロンの創成期のメンバーには、「演劇通信」というミニコミ誌をだしていた人たちがいた。

▼当時、京都で演劇活動をしていた菊川徳之助さん(現在、近大の教授)と粟田尚佑さんのお二人。

▼「演劇通信」は1970年代に関西芸術座の演出家だった岩田直二さんが個人的にだしていたミニコミの演劇評論誌。

▼ミニコミといってもその頃の関西には演劇の専門誌はなく、唯一の評論誌だった。

▼一時、休刊していたのをもったいないからと、お二人が岩田さんに復刊をもちかけたのだが、復刊させるにあたって編集長をお願いしたのが、なんと中島陸郎さんだった。

▼人生は人の数珠繋ぎというが、僕と中島さんを結びつけたのも、このお二人である。

▼余談だがネットで検索したら岩田直二の「演劇通信」という本がでてきた。
じゃむち通信を出していた松本工房から出版されたもので、じゃむちのインタビュー記事も収録されているという。

▼岩田さんは“あの時代の新劇人”の証言者である。

松原利巳

ぷがじゃオールディーズ 2008-11-27

関西小劇場の回想vol.8
「オレンジルーム サロン1」

▼中島さんと始めたことで画期的だったことの一つに「サロン」がある。

▼オレンジルームは学生劇団など、これから伸びていきそうな若手劇団のメッカを目指していたので、当然、集まってくるのは無名の人たち。

▼そこで、せっかく集まってきた新しい才能をなんとかメディアの人たちに知ってもらい、できれば応援もしてもらえるようなネットワークを作れないだろうかと始めたのが「サロン」だった。

「サロン」といっても飲み会である。
メンバーは知り合いの情報誌や新聞の記者、評論家。

▼当時、朝日新聞の学芸部に大川達雄さんという名物記者がいた。

小柄なオールバックの紳士で、新聞劇評なども署名入りで書き、商業演劇から歌舞伎、能狂言、文楽、新劇にいたるまで関西の演劇界の信頼を一心に集める重鎮だったが、記者会見などでお付合いしてみると、若い劇団に対しても好意的であることがわり、中島さんと機会を見つけては大川さんを飲み会に誘い出すようになった。

▼「サロン」の始まりである。

松原利巳
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