アーティストインタビュー
茂山 あきら (狂言師)

茂山あきら プロフィール
1952年京都生まれ。二世茂山千之丞の長男。父および祖父三世茂山千作に師事。
1956年『以呂波』のシテで初舞台。
1976年に正義(現十三世千五郎)、眞吾(現二世七五三)と「花形狂言会」を結成し、 活躍する。また、ジョナ・サルズ(米)と1981年に「NOHO(能法)劇団」を組織、狂言や ベケットらの作品を国内、海外で上演するなど多彩な演劇活動を展開。
1992年京都市芸術新人賞受賞。
1999年には「花形狂言会」を卒業。
著書に『京都の罠』(KKベストセラーズ)。

「創造とは何か」をテーマに、様々なジャンルで活躍されているアーティストの方々にお話を伺っています。
今回は、大蔵流狂言師、京都能楽会理事で、1981年に「NOHO(能法)劇団」を組織、国内、海外での上演など多彩な演劇活動を展開、その他オペラ、演 劇、パフォーマンスなどの企画・構成・演出を手がける茂山あきらさんにお話を伺いました。

小原
 最近、特に茂山家は斬新な企画をどんどん打ち出しておられますよね。一般的に狂言というと古典=伝統というイメージが強いと思うんですが、その辺りの視 点から創造についてどのように考えておられるのかお聞かせ下さい。

茂山
 狂言は、今から650年前から700年前に大体今の形になってきたと言われているんです。それこそ石が転がり落ちて丸くなるように自然と足されて、そぎ 落とされて、今まで続いてきた。実はそこでもう毎日創造が行われていたんですね。
 狂言というのは、現代劇と同じように対話劇なんですね。そうすると、言葉がわからないとどうしようもないっていう部分がある。言葉ってのは当然変わりゆ くわけです。毎日言葉が創造されてるわけですね。その言葉を道具として狂言が創られてるわけで、そういう意味でも古典狂言自体も変わり続けている、創造し 続けている。やはり解っていただくって事自体が創造であると思うんです。
 僕は、言葉は芸術の基本ではないかと思うんです。解ってもらう為には人間って結局対話しか無い。絵や音楽、建築であろうが全ての芸術は言葉であるという ところが僕の立場なわけですね。

小原
 狂言の場合、型という一つのフォームが固定されたものとしてあると思うんですが?

茂山
 僕はそうは思わないですね。古典だから当然決まっていると思われているけれど、型もどんどん変わって行ってる。
 例えば、セリフの言い方っていうのは型ですよね。狂言の場合、文節の中の二文字目を強くすると狂言の型になる。それは確かに型であるんだけれども、今と 昔を比べたら喋り方、スピードは変わっている。私のおじいさんと私とでしたら、同じ経木(セリフ)でも私の方が一割方速いですね。二文字目が強いという フォームを守りつつ、実は喋り方自体を変えてるわけです。そういう意味で、どんどん変わって行っている。
 決まっているのは大衆の見方や大衆に対して何を訴えるかといった狂言という心のフォームだと思う。そういう心の部分が型であって、それからすべてへ派生 してくるもので、それはその時代を通じて変わって行く。昨日と同じ事をやろうと思ってもやれないわけだし。結局人間のやる事って全て創造的なはずだと僕は 思っているんです。

小原
 創造的というのは、ゼロから生み出すものではないという事でしょうか?

茂山
 ゼロからの創造って、有るようで無いんですね。必ず人間には歴史があって、創造にも歴史がある。つまり創造するということは実は何かなぞらえていなが ら、ある部分を少し変えたり、膨らましたり、凹ましたりとか、その程度なんですね。結局前を引きずってるんです。
 だから僕は意識的に変えてない、でも変わるんです。変えざるを得ない。なぜならそれはお客さんに観ていただくからなんですね。観客が求めるものに応えて いく。こちらが一歩先行する場合もあるし、逆に押し出される場合もある。

小原
 オリジナリティーについてはどのようにお考えですか?

茂山
 それは体格の違いによって演技の仕方が変わってくるように、どうしても個人的な事に還ってしまいますね。でもその方法論を考えるという思考方法自体全て が、私の場合だと京都という部分に繋がってると思うわけね。そこに創造の原点があるのではないかと思います。

小原
 その"創造の原点"というのをもう少し具体的にお伺いしたいのですが。

茂山
 文化というのは基本的に、ある時間軸でずっと流れ続けるもので、だから人間が知性を持った瞬間に文化は始まっている。文化ってどこの国でも最初は神のた めにやられていた訳ですね。
 日本の場合それは、神道、八百万(よろず)の神なんです。キリスト教やユダヤ教のような一神教と違い、結局どこにも寄りどころのない、ある意味自己しか 信用できない。それは個に帰結しちゃう。これは人間賛歌だと思うんですけど、そういう考え方があって、そこから続く継続性みたいなものが今の日本的な物に 融合されている部分があると思う。
 ものの考え方というのは全て文化的な起こりで、住む土地に根ざしているわけですね。ですから私の場合は日本的、もう少し細かい部分を見たら京都的なんで すね。
 それが東京だろうがニューヨークだろうが、一旦住んだら、その土地や空気ってのは途端に影響しちゃうんです。要するに、土地というか、生活、あるいは生 きているとかそういうことから、全てのもの造りは始まってしまうと思っているんです。

小原
 より創造的であるためにどういう事が必要なんでしょうか?

茂山
 一つのテクニックとしてね、例えばたくさん創造しようと思ったら、一度瞬間立ち止まってみる。動きをゼロにすることで周りが見えてくるから。ずっと流れ てるから変わってないように今は思うんですよ。立ち止まってみると後ろも前の遠くの景色も見られる。そうすると自分はどの方向が好きなのかとか、やりやす そうだとかが見えてくる。そのやりやすそうな方向に進んでいけば、可能性としては大きいと思いますね。

小原
 では最後に、"創造"とはあえて一言で言うなら何でしょうか?

茂山
 "創造とは変わる事だ"。私はそう思います。過去を否定してもいいし、しなくてもいい。ただ変わらなければいけない。創造というものは、その人間の中身 の一つですから、それは変わるはずです。生きている事が創造ですから。実はみんなやっていることだと思う。

P.A.N.通信 Vol.56に掲載

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