芸術創造館
ステップシアター 大阪セレクション2008 劇評

大阪セレクションを終えて

大阪市立芸術創造館 副館長 松原利巳

大阪セレクション2008が、2009年3月8日(日)に無事終了しました。関係者の皆様、そして公演にお越しいただいた観客の皆様、本当にありがとうございました。

この「大阪セレクション」は、2006年から2年間、年末年始に開催していた「ロクソセレクション」の発展型としてはじめたもので、ロクソドンタブラック、一心寺シアター、應典院の3つの小劇場で開催している演劇祭で優秀賞を獲得した劇団に参加してもらい、その評価を受けた舞台を再演してもらおうという企画です。

第一回目の今年度は、ロクソドンタブラックからポータブル・シアター、ATLAS、バンタム・クラスステージ、應典院から突撃金魚、一心寺シアターからコメディーユニット磯川家の5劇団が参加してくれました。

トップバッターの突撃金魚の作・演出、サリngROCK 氏が公演の直前にOMS戯曲賞を受賞して、フェスティバルをおおいに盛り上げてくれました。

この「大阪セレクション」では、初めての試みとして、朝日新聞の桝井政則さんに参加した5劇団の劇評をお願いしました。
おそらく関西では小劇団で劇評をしてもらえる機会というのは、きわめて少ないと思います。どんなに厳しい劇評であっても、自分たちが創った作品に向けられた批評の目を、これからの創作活動の糧にしてもらえれば幸いです。

2009年度も「大阪セレクション」は開催予定ですのでご期待ください。


劇評…桝井政則(朝日新聞)

突劇金魚「王様ニキビ」

「せめて見通せない時代に追いつくもがきを」

【シアトリカル應典院 space×drama2007優秀劇団】
2008年12月19日-21日
公演情報

 胸を突く切実な思いがあるからこそ劇作する、それが劇作家だろう。でも劇作家の視点が時代とずれていると、時代の鏡である演劇はピントはずれなものにしかならない。

 舞台が始まって抱いた印象は「またか」だった。自分の殻に閉じこもった引きこもり男の物語。これまでに似たような作品をたくさん見てきた。傑作もあれば駄作も。今作も10年前ならばその切実さが時代の空気を共鳴し、いきいきとした世界が舞台に展開したのかもしれない。けれど09年の今、このような作品群を見て感じるのは時代に対する劇作家の感性の鈍さでしかない。

引きこもっている事を描くだけではすまない時代になっているにもかかわらず、劇作家がその時代を感じ取れず、またその先を見通せずに思考が引きこもってしまっている。感性が鈍り、現実に対する認識が不足し、過去の演劇作品の勉強も不足している。自分を取り巻く小さな世界、仲間内だけでしか通用しない、ゆえに普遍性を持たない舞台を描いて満足する。世界と向き合おうとしている演劇人はみな、見通せない時代の先にある答えまでは到達できなくても、せめて出口の光くらいを見いだそうともがいている。もがき方が甘い。劇場の外の世界の方がもっとシビアだ。

 一人暮らしをしていた蔦彦のところに、離れて暮らしていた姉ナオミと弟ココロが入り込んできたところから物語は始まる。が、なぜ肉親である必要があるのが、最後まで必然性がない。頭の弱い蔦彦を頭の弱いナオミが気に入って、頭の良いココロが嫉妬するような場面もあったが、この3者の関係は深まることは最後までない。

 妄想に遊ぶ蔦彦の造形も疑問が残った。人体模型と抱き合っているところを見られて「恥ずかしい」と身もだえるあたり、引きこもっている人間らしくない健康的な感覚が見られてかえって奇妙に映った。他者が簡単にずかずかと入り込める部屋に違和感が残った。蔦彦、分身であるライオン、人体模型のせりふは心象風景を語りすぎる。ハイテンションのナオミ、弟のココロなどが時に光る表情を見せる場面もあったが、概して類型的なキャラクターが類型的なせりふを積み重ねることも多い。

ポップでキュアな演出は嫌いじゃないが、とにかく説明的なせりふが多い。一番言いたいこと、伝えたいことは言葉にしないのが演劇では。饒舌な芝居は楽しいが説明や理屈ばかりを並べ立てると飽きてします。人体模型とのからみが舞台のスピードを落としてしまう演出も残念だった。

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ATLAS「喪主もピアノが弾けたなら」

「隠れた部屋の使い方に工夫を」

【ロクソドンタフェスティバル6 第2位】
2009年1月9日-11日
公演詳細

 葬式ものはコメディーの典型的な設定のひとつだ。笑ってはいけないからこそのおかしみがある一方、人の死が通底しているので感傷的なエピソードも盛り込める。悲喜こもごもを一緒くたに舞台にできる"おいしい"シチュエーション。しかし、完成度を高めないとベタでありきたりの芝居になる恐れも高い。

 父と反発する息子を軸に物語は進行するが、この父がゲイだったのいうのが独自の視点。ゲイである父に対する息子の葛藤と取り巻く登場人物たちのドタバタ、父の恋人という見知らぬ女性の登場など、展開はオーソドックスで時にベタだが、テンポの良いせりふがぽんぽん飛び交うのが見ていて楽しい。俳優の力量もなかなか。いろんな形で入るツッコミも関西の芝居ならでは味わいがあった。

ただ父の人物像が、人が良くて「ほっておけない人」の以上に想像が広がらないのが難点。いろんなつきあい方をしている登場人物がいるのに、どこか一面的で薄っぺらの印象だった。ゲイの友人を女優が演じていたが、なぜだろう。男優が演じた方が自然ではなかったか。終盤、みんなが「実は拒食症だった」「サインボール盗んだ」などなど自分の秘密を暴露する辺りは、少ししつこい感じがした。いやが上にも盛り上がってしまう終盤こそ、抑制を効かせた芝居づくりで観客の心を打ちたい。

 演出で一番問題だと感じたのは、父が寝ている隣の部屋の使い方だ。この隣の部屋は観客には見えないが、登場人物たちは度々出入りする。岩松了氏の芝居に顕著なように、こういう見えない部屋をどう使うのかが劇作家や演出家の手腕だ。見えない部屋での出来事が音などの演出で暗示されたり、登場人物の様子や関係が部屋に入る前とがらりと変わっていたり。見えない部屋で何が起きているのか、あえて説明せずに隠すことで観客の想像力を刺激すれば世界観が広がる。ところが今回の舞台では、この奥の部屋が有効に機能していない。本当にただ父が寝ている部屋というだけだった。本当は部屋に踏み入れて観客から見えない方が違和感のない場面でも、せりふがあるために部屋の手間で立ち続けてしゃべっていた。隣の部屋の使い方は工夫が必要だろう。

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ポータブル・シアター「バタフライはフリー」

「今、何故この戯曲なのかの意味を明確に」

【ロクソドンタフェスティバル6 第1位】
2009年1月16日-18日
公演情報

 盲目の主人公と、隣の部屋に住む女優志願の女の子、主人公の母親、それぞれの思いを描いた米国人の劇作家の戯曲。
 パントマイムを多様した演出が特徴的だ。舞台装置は最小限に減らし、パントマイムで表現した。俳優はパントマイムに長けているが、その上手さ故に動きが際だってしまい、時にうるさい印象を与えてしまうことがあった。マイムは決して自然な動きでないので、今回のようなリアルなせりふ劇ではどうしても浮いてしまう。俳優の身体と言葉が乖離してしまう場面もあった。どこにどんな形でマイムを取り入れるのか、少し整理する必要があるのではないか。戯曲とマイムの相性は大事だ。

 俳優はそれぞれ個性的で熱演したが、熱演の余り、せりふが緩急のない平板なものになってしまった。設定は主人公の部屋なので、大声でわめくこともあれば、聞き取れないほどの声量でささやくこともあるだろう。緩急のよって舞台全体にメリハリが出た場面も、単調に映った。感情の表現も過剰。外側に直線的に押し出すばかりではなく、内側に押し殺す激しい感情も見てみたかった。戯曲が書かれた時代と現代では俳優の肉体が違っているはず。その溝を埋める演出が必要だ。

 息子と母の葛藤が主題だが、親子関係の有りようが現代の目線から見ると時代がかって見えてしまう面がある。過去の戯曲を扱う場合、どう現代とリンクさせるのか、この戯曲を今上演することで観客に何を伝えるのか、この戯曲を09年に上演する意味をしっかりと考えて演出すると良い舞台になるだろう。

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コメディユニット磯川家「ベリー・ベター・ストーリー」

「ベタならばこその完成度を目指せ」

【2008年度一心寺シアター倶楽7・5・3企画最優秀】
2009年1月20日-26日
公演情報

 表題通りのベタなラブストーリー。ベタであることは全く問題ないが、今作はベタであることに甘えている感じを受けた。ベタなものを舞台上で成立させることほど難しく、技量が必要となるものはない。ところがこの芝居では、説明的なせりふなどの戯曲の未熟さ、勢いだけで丁寧さを欠いた演出など、作劇のつたなさを「ベタだから許される」と開き直っているかのようだった。

芝居はまったく今の時代とは切り離された空気で展開する。男と女の関係は普遍だからと好意的に受け止められなくもないが、どちらかと言えば時代錯誤という印象の方が強かった。人物のキャラクターも類型的で引きつけられるものが乏しく、登場人物に気持ちを同調させることができない。登場人物がとっくに気づいているべき事にまったく気づかないなど、無理で強引な展開も目立つ。頼りない男の子が女の子に無条件で承認される、という流れも古びた設定。芝居はどこかに今の時代の空気が焼き付けられているからこそ上演する意味があると思うのだが。

魅力的な俳優が何人が目についたのが救いだが、戯曲にも演出にも演技にも緻密さが足りまい。緻密さこそ、ベタを成立させるカギだ。

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バンタムクラスステージ「ルルドの森」

【ロクソドンタフェスティバル6 第3位】
2009年2月6日-8日
公演情報

「引き算すればもっと良くなる」
 元々は映画を想定した本なのだろう。戯曲によるとシーンが32もあり、通常の舞台に比べてかなり多い。シーンが多い場合、観客を混乱させない場のつなぎ方、スムーズな転換、役者の感情の素早い切り替えなど、超えなければならないハードルが高くなる。この舞台は、演出と照明の工夫などで見事にそのハードルを乗り越え、テンポのある芝居に仕立てた。無駄と思えるシーンが全くないのに関心した。

昔放映されたテレビドラマと現実世界の連続猟奇殺人が交錯する二重構造の物語は、隙のない筋立てで伏線もしっかりと拾い上げていて見応えがあった。それぞれの俳優は彼らが抱える闇を熱演し、説得力のある役と緊張感あふれる劇世界を構築した。トラウマを持った刑事、美への欲望やカンニバリズムによる連続猟奇殺人など、過去の映画などで見たような既視感はぬぐえない点もあったものの、二重構造の一方の世界をテレビドラマとした発想は面白い。

ただ映画的である故の弱点として、整合性が取れすぎている印象を受けた。舞台の利点のひとつは、映画より抽象的な表現ができることだろう。今回の舞台は緻密なストーリーを展開し、すべてに解答を与えているが、もっとぼかして観客の想像力にゆだねる部分を広げたらもっと恐ろしい世界が見えたのかもしれない。二重構造をつなぐ役である香乃子の種明かしを、もっとぼんやりと描けなかったか。映画や小説ならば当然必要とされる説明や演出から観客の想像に委ねる部分を「引き算」することで、魅力が増し、成立するのが演劇の魅力だ。

 一言付け加えると、ちょっとずるいと思ったのが香乃子を演じた俳優の年齢だ。あの種明かしのためには、やはりそれ相応の年齢の俳優でないと、ちょっと納得できない印象を抱いてしまう観客がいるかもしれない。

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